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息子の願い 絵本「ハナミズキのみち」が好評 [東日本大震災]

一人の母(淺沼さん)を作家(野上さん)と画家(黒井さん)が支援 被災地復興へ思いはせて
 絵本『ハナミズキのみち』(金の星社、1365円)が好評だ。東日本大震災で亡くした息子たちの思いを伝えるために、陸前高田の一人の母親が一歩前へ踏み出した“結晶”――。被災地の復興へ、作品に込められた思いを紹介する。
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ぬくもりに満ちた作品

 大すきな町。

 大すきなけしき。

 ――思いのいっぱい詰まった書き出し。冒頭の見開きページには、山上からの素晴らしい眺めが描かれる。穏やかな海と緑の松原が広がる、かつての陸前高田の姿が。

 あの日、「3・11」に、少年は命を奪われる。しかし、悲しみに暮れる母に、祈りの声を届ける。みんなが二度と悲しまないよう、“避難路にハナミズキを植えて”と。

 悲しい話ではあるけれど、優しいぬくもりにあふれている。心が癒やされて、ホッと温かい気持ちにさせてくれる作品だ。

 この『ハナミズキのみち』の特徴は、直接被災するとしないとにかかわらず、幼い子どもからお年寄りまで、幅広い年代の人が手にして素直に読むことのできる秀抜さにある。

 市の観光物産協会に勤める原作者・淺沼ミキ子さんの思いを、児童書の元・編集者で作家の野上暁さんと、人気絵本作家の黒井健さんが、全面的に支援して完成した一冊だ。
健さんの心を表現する
1_8.jpg淺沼ミキ子さん
2_4.jpg黒井健さん
3_4 (1).jpg野上暁さん
 先月6日、「東京国際ブックフェア」の公開イベント「震災復興支援シンポジウム」では、淺沼さんと野上さん、黒井さんが一堂に会して“てい談”を行い、絵本制作の経緯やエピソードなどが語り合われた。

 大震災の当日。淺沼さんは帰宅の途中、消防団員の使命感から自主的に避難誘導に当たっていた息子・健さんと会う。しかし、健さんは津波に遭い、そのまま帰らぬ人に。25歳の若さだった。

 自分を責め、眠れぬ日々。そんなある日、夢枕に立った健さんが語り掛ける。「津波からの避難路にハナミズキを植えてほしい」「泣いてばかりいないで、楽しいことを思い出して」――と。淺沼さんは、“悲しいで終わっていたら前に進めない、今後どうしていくかが大切”“被災者の、そして犠牲者の無念を広く伝えたい”と思うようになった。

 一昨年秋、野上さんと出会い、アドバイスを受け、まずは思いの丈を全て文章につづってみた。この「ハナミズキの願い」を原作として、野上さんが情熱を込めて企画・構成を手掛け、黒井さんが渾身の絵筆を振るった。

 3人で何度も話し合い、何度も手を入れ直した結果、多くの人に“伝わる”作品が生まれた。

 当初は抵抗感を覚えつつも、淺沼さんは原作の文章を大幅に削り、25歳の若者ではなく少年の語り口調に変えた。それは自分のはやる思い以上に、絵本は“誰に届けるものか”を優先させた“路線変更”だった。

 シンポジウムで淺沼さんは語った。「完成した絵本を仏壇に供えて、息子に報告しました。“あなたの思いがきちっと入っているね”と。短い文章ではありますが、絵の力、絵本自体の力によって表現された思いを、多くの方に感じてもらえる作品だと思います。(野上・黒井)両先生に感謝申し上げます」
悩み抜いて描かれた絵

 シンポジウムでは、黒井さんも野上さんも、思いの丈を語った。

 大震災後、“何かしなければ”と思っていた黒井さん。サイン会やチャリティーへの参加などもしたが、“何かできた”という実感に乏しかったという。そんな時、昨年の1月、野上さんから絵本制作の話が。淺沼さんの原作を読み、これは「私に与えられた機会」だと思った。

 「うまく描けるかどうか分からないけれども、淺沼さんの気持ちに応えたい」と構成に着手し、数カ月で絵本の下書きであるラフを完成。だが、絵を描くのは難渋を極めた。

 「かつて、私の絵は“きれいすぎる”と評されて、気にしていましてね。私が震災をきれいに描くというのはどういうことなんだろう、と」

 悩みに悩んだ。大震災から、まだ2年。被災者の方の傷は、いまだ深い。震災の場面は1カ月、描けなかった。体重も減った。

 「津波もしかり。がれきが一番描けなかった。何度も筆を重ねて今まで使ったことのない手法を用いて描きましたが、この中にたくさんの命があると思っているんですよ。今でも、あそこまでしか描けなくて、ごめんなさいという気持ちです」

 野上さんは、日本ペンクラブ理事として被災地支援の取り組みを積極的に推進し、本の力で被災した子どもたちを支援する「子どもたちへ〈あしたの本〉プロジェクト」にも従事。今回、この絵本を世に送り出すために、奔走してきた真情を、次のように総括した。

 「陸前高田をはじめとする被災地では、まだまだ復興まで程遠い現状がある。私たちはいま一度、被災地で苦労なさっている方に寄り添い、少し思いをはせた方がいいのでは。また、その思いを多くの人に伝えたくて、この本を手掛けました」

 厳選された言葉、柔らかいタッチで温かみのある絵――3人の壮絶な“生みの苦しみ”に支えられた絵本だからこそ、読む人の心を優しく包むのだろう。

庶民の復興に想いを寄せて [東日本大震災]

復興に想いを寄せてjavascript:;ダウンロード.jpgimages.jpg

 宮城・石巻市の万石浦で、アサリ漁復活への取り組みが始まった
イカダ式の育成装置の中で、1㍉ほどの稚貝約100万個を管理。

 一昨年の震災で海の環境が変化したことから、
稚貝を大切に育てる方針が取られ、
環境に適応できる大きさまで育てられた後、
放流される。
一つ一つの稚貝を強く、大きく育てようとする挑戦が、
復興の希望へとつながる

 自然豊かな海と美しい水田が広がる石巻地域は、
江戸時代、仙台藩を〝伊達百万石〟とうたわれる雄藩へ押し上げた。
著しい発展をみたのは17世紀末。
1611年に発生した「慶長三陸地震」からの本格的な復興を目指す中、
氾濫を繰り返す北上川が整備された後のことである。

被災地を豊かな実りの地に――石巻には不屈の歴史がある。
 その陰に〝本気の一人〟がいた。
治水の名手と伝わる川村孫兵衛。
20代で伊達政宗の家臣となった彼は、
後に、あえて荒れ地に飛び込んで河川を改修し、美田に一変させた。
その地域は後年、それまでの40倍の石高に発展する。
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太平洋少年少女合唱団が、
震災から2年半を経て活動を再開した。

若い命には未来を切り開く無限の力が宿っている。
宝の一人一人を大切に育てながら、
自身も成長していきたい太平洋少年少女合唱団が、
震災から2年半を経て活動を再開した。
若い命には未来を切り開く無限の力が宿っている。
宝の一人一人を大切に育てながら、自身も成長していきたい

すばらしい人の努力と想いの温かさが感じられた。

「アンパンマン」の作者、やなせたかしさん [東日本大震災]

 アンパンマンの作者、やなせたかしさんは詩人でもあり、多くの歌を作った。
アニメの主題歌「アンパンマンのマーチ」も自ら作詞。
25年前の放送開始以来、子どもからお年寄りまで幅広く愛されてきた
 実はテレビで流れているのは2番の歌詞で、
1番はあまり知られてこなかった。
その〝幻の1番〟が、東日本大震災の後、広く歌われるようになる
 ある日、被災地でラジオから流れたフルコーラスの
〝アンパンマンの歌〟
1番は
「そうだ うれしいんだ  生きる よろこび たとえ  胸の傷がいたんでも」
と始まり、
「なんのために 生まれて  なにをして 生きるのか」
と続く(JASRAC出1313066―301)
 やなせさんが〝世界最弱のヒーロー〟と呼んだ
アンパンマンの強さとは
 「傷つくことを恐れない強さ」
 何度も立ち上がる姿を歌った歌詞が被災者を勇気づけた
 やなせさん自身もアンパンマンのポスターを作り、
被災地へ。その思いを語った。
「やっぱり、生きている限り、何かをしなくちゃいけない。
自分のできることで、少しでも皆に喜んでもらえればいい」
 これからも、作品は人々を励まし続けるだろう。
命は尽きても、心は尽きない。
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